これまでのお客様ご笑介☺️
前回出演して下さいました、吉田ケアマネからのご笑介☺️
過去『ヤバい奴』と言われた、水下ケアマネをお呼びいたします。
それでは
水下
ケアマネジャー
どうぞ~👐
福祉へのきっかけ
『貴方は相手を不安にさせる』
この福祉の道に入って、ずっと心に引っかかっていた言葉がある。
そんな福祉の道を選んだのは、単純だった。友達の家に遊びに行っている時、友達の姉ちゃんが言ってくれた言葉。
『アンタは誰よりもばあちゃんに優しいから、介護の大学に行きなさい』
当時、とにかく何も将来やりたいことも無く、長崎の男子校で仲間達といつも遊ぶことばかりの楽しい高校生活を満喫していた。
友達の姉ちゃんが行っている介護の大学をお勧めされてふと思う。
一緒に同居している、ばあちゃんがとにかく大好きで、そっか俺が福祉か🤔
ばあちゃんっ子としてはとにかく心惹かれた。友達の家のばあちゃんにも、とにかく可愛がられた。
自然と、ばあちゃんとの時間は楽しかった。それよりも心惹かれた最大の言葉があった。
『ウチの大学男子が少ないから、女の子にモテるよ🥰』
姉ちゃんの言葉に、とにかく心踊った。綺麗事なんて言わない。
9割モテたい
1割介護
これが福祉の道を選んだ始まり😁夢膨らませて入った福祉大学。とにかくモテた
記憶はゼロだった・・・それが4年間大学の思い出。
福祉大学時代
18歳。モテると勘違いしていた1年生。
老人ホームの1日体験を学ぶ時間。グループで介護士の先輩達の話を聞く。
内容は、お年寄りの方と話してみましょうだった。そのグループには男子が2人しかいない。みんなは接し方が全く分からなかったのです。
しかし自分だけは、ずっとおばあちゃんと接していたこともあり、とにかく慣れていた。
まさに今😏明るいモテモテ人生の始まりを感じた。カッコいいところを女の子に見せられる。想像通り上手くいった。
やっぱり俺向いているのかなと自画自賛。これなら出来そうだなと、福祉の道を選んだことに大きく自信を持った。
自信は持てたが、グループの女の子からは見事モテなかった。理由は全て分かる。男子校の経験から何話していいか全く分からなかったのです。
モテないまんま大学生活は過ぎていく。2年の実習は1週間。3年は1か月。4年生進路考える時期。
私達の大学からは老人ホームに行く人が多かった。卒業することで、国家試験を受けて介護福祉士になれた時代。私は、社会福祉士を受けて受かれば社会人デビュー。そんな夢を膨らませていたが不合格。
無資格で就職活動。無資格では選択肢がかなり減り、福岡のグループホームが初めての職場となった。2006年、まだまだ介護保険が盛り上がっている時代だったのです。
初めての社会人
グループホームで3年半勤める。
その時に社会福祉士を取得した。初めは勉強もろくにせず、福岡の試験会場で、仲間と逢えるのがそれが楽しみだった。
しかしふと感じた衝撃。仲間達の背中を見た時に、こいつらとは一緒にいたらあかん。このまんまだとダメ人間になってしまう。何故かそんなことを感じた自分がいたのです。
思い立ったら行動が早い。その次の日に社会福祉士を取る為ユーキャンに申し込んだ。やっと受かった社会福祉士に夢抱く。
そして転職。25歳老人保健施設の相談員へ。このまま、夢を掴めるのかと心躍りっぱなし。この3年半やってきたことが活かせられる。
現実は甘くなかった
しかし現実はとにかく厳しかったのです。
社会人としての経験を、全く経験していなかったのです。電話のかけ方や出方、名刺ひとつだってそう。そんな経験を、介護の現場ではしてこなかったのです。
電話がとにかく怖かった。家族さんに、利用者さんの連絡やお願い事をするだけでもドキドキして、緊張すればするほど空回りする自分の姿。
すると上司から『あんたの電話は相手を不安にさせる』
毎日に様に怒られた。思っていたことが、現実は想像以上に出来なかった。悔しかった。するとこれまでの自信が嘘の様に弱気になる。益々不安となり、更に注意される。しまいには電話をかけさせてもらえなくなる。
アイツに電話をかけさすと、相手を不安にさせる。電話に出てもいいけどすぐ繋げ。伝言くらいは何んとか出来るならそれくらいしかやらせられない。
全てをダメ出しされた。自分が描いていた夢は全く違う世界だったのです。
猛勉強して介護福祉士の資格を取得。現場に人がいなかったこともあり、異動して現場に行く。
ケアマネに挑戦
現場をやりながら、施設ケアマネさんと出逢う。しかし一切取りたいとは思わなかった。一体何をしている仕事か分からなかった。
でも受験資格がある。全く興味無かったのですが、受験して見るが勉強せずに受かるはずがない。そしてそこから勉強して、ケアマネの資格を手にする。すると施設ケアマネに挑戦しようと目覚める。
そこでの言葉も今でも忘れらない言葉として残っている。
これ以上増やす気はない。相談員でうまくやれなかった貴方が、ケアマネなんてやれるはずがない。
であればと在宅のケアマネはどうか?すると、未経験の貴方には、特に在宅のケアマネはさせられない。描いていた夢は、全て崩れ落ちていくと同時に、自分自身全てを否定されている様に感じ、とにかく自分を責めた。
芽生えたこの気持ち。『ケアマネがやりたい』もう故郷九州を出よう。九州で20年以上生活していて出て見たかった。自分はこんなことで、落ち込んでいる場合じゃない。
東京大阪名古屋で悩む。友達がいた為に名古屋に決める。
負けるもんか!
名古屋上陸。ここが今から夢掴み取る場所か。20年育った故郷と思うと、なんだかドデかい大都会に映った。
名古屋初の就職先は、小規模多機能とグループホームを運営している場所を選ぶ。
そこにはTさんとMさんが仕事のイロハを教えてくれた。また今に繋がる人生のイロハも教えて下さった出逢いとなる。
田舎もん。とにかく舐められたくなかった。長崎から出て来て、縁もゆかりも無いこの名古屋で働くのは不安しかない。不安に負けない様に、必死に虚勢を張った。30歳とんがった時代。
ヤバい奴ここに参上
小規模多機能のケアマネになった。受かったばかりの、ケアマネ免許は大きな自信だった。
管理者の次のフロアリーダーと言う立ち位置で、完全勘違いをした。いつも心で叫び続けた。田舎もんはやるしかねえんだよ。
矢印が完全に自分自分。言っていることは全て自分ばかりだった。強要した。職員さんとの喧嘩は当たり前だった。とにかく嫌われた。嫌われたくない気持ちと、このままでいたい気持ち。
厳しくした方が良いのか。優しくした方が良いのか。ずっと分からずに狭間でもがいていた時。でもどうせ嫌われるならとことんいけ。
しまいには、皆から『ヤバい奴』そんな風に呼ばれる様になっていくのです。
3,4年目くらいから俺嫌われている?立場が逆転していった。自分が居なくても現場は回る様になっていくのです。逆に自分の居場所を創る為に創り上げた環境が、自分の居場所が無くなっていく様に感じ始めていく。
みんなと本気で利用者様の為にと想っていたことは、自分の勘違いから、結果自分の首を絞めてしまった。5年勤めたが、もう限界だった。
熱量高く
大きい規模でやってみたい。介護付きの有料老人ホームに転職した。
ヤバい奴。そんな反省を活かしていく。でも気持ちは一切変わらない。同じ熱量の仲間達と出逢いたい。
管理職の立場として、フロアリーダー36歳。しかし現実は売上ばかりの世界だった。管理者なんだからと、上司からは建物の管理。売上管理。スタッフ管理。このことばかり言われ続けた。
駐車場の電気ひとつ切れていると、頭ごなしに怒られた。蜘蛛の巣、ハチの巣ひとつあれば、こっぴどく怒られた。
何で気付かないのか。そこで何をしていいか分からなくなり、どんどん自分が分からなくなってしまう。
2年しか持たなかった。今思えば全ては自分の責任。しかし今以上に未熟な自分の考えは、全て他責思考だった。
人として見てくれないことで、楽しくも無い、ワクワクもしない、右肩上がりを目指せ。自分のことなんかより、矢印は全て会社ばかり。
どんどん自分の表情から、笑顔はあっという間に消えていった。
名古屋に来た時、そびえ立つビルを眺めて、田舎もんはやるしかねえ。そんな気持ち感じられない程、落ちていく自分の姿があったのです。
そして、同じ熱量求めて転職するが一緒だった。全て自分を責めた時期だった。その都度、あの言葉が心に何度も突き刺さった。
『貴方は相手を不安にさせる』
どん底状態
そんな時に、小規模多機能時代、共に働いていた仲間達が、バーベキューに誘ってくれた。ヤバい奴の自分にも関わらず、声かけてくれたのが嬉しかった。
その時、ケアマネやりたいなら、だいふくと言うところ紹介してあげるよとSさん。
既にいくつか内定が決まっていた。その中で行こうと決めていたのは、老健のケアマネ。
しかしずっと迷いがあったのです。更新研修でコンプレックスだったこと。在宅のケアマネさんの話は、知らない制度ばかりだった。羨ましかった。
しかし、あの時の言葉がどうしても邪魔をした。相談員でうまくやれなかった貴方が、ケアマネなんてやれるはずがない。特に在宅のケアマネはさせられない。
結果、在宅ケアマネに応募しようと言う気にはなれなかったのです。
しかしそんな時、1人の大切な方からの言葉が運命を変えるのです。
背中押された時
『だいふくさん、紹介してもらったら?』
妻からの言葉でした。これまで、ずっと悩んでいたことが、嘘の様に背中を押された時でした。
自信だって、勇気だって、勢いだって、何もかも失ってしまっていた自分を、常に隣で応援してくれた人の言葉は、大き過ぎた力でした。
いつもありがとう。感謝の言葉しか出てきません。
同時に、神門(ごうど)の「さて、どう生きようか?」を何度も何度も聴いた時でした。
“「変わり者」と苦い顔された個性さえ「オリジナル」と称され、この世界以外で俺 人から「ヤバい」なんて言われないだろう
馬鹿にされ真面目と疎まれ隅にいた俺が辿り着いた住処
存在を認めてくれる ありがたくステージ上光がさす”
妻の言葉に背中押され、40歳飛び込んだ、だいふくと言う世界。まさに歌詞が今と重なるのです。
まるであの日の、前向きな勢いをやっと手に出来た時だった。一切無駄なんて無かったんだ。
俺やるしかねえんだよ
入ってすぐ感じたこと。あまりにも熱量が合ったこと。心の底からわくわくした。
そこには自分以上の、とんでもない熱量が溢れていた。自分は負けず嫌いなはずなのに、全員が自分以上ばかりだった。あまりにも届かない世界だった。
ハーレーに乗りたいと言う、ケアプランを生で見た。
だいふくに入社して3か月の時。
考えられない世界。
介護の概念をぶっ壊された時だった。
出来ないと思うことが、そこには当然の様に出来ていた。
思い起こしたのです。初めてケアマネデビューをさせていただいた日。尊敬するTさんにケアプランを見せた時、あんたのケアプランはつまらない。
自分としては最高のプランだった。出来ないんじゃなくて、こうすれば出来る、そんな可能性を創り出せ。当時は理解出来ていなかった。
しかし今、心から頷ける自分がいます。
だいふくが拾ってくれたことを感謝している。あの日どん底の自分の背中を押してくれた妻。私を繋げてくれたMさんやSさん。何度も何度もありがとうございました。今やれているのは、皆さんが助けてくれたから。
そして、今共に働いて下さる方の応援のおかげだなって、心から思える日ばかり。
みんなが、こんな私なのに、本気で背中を叩いて応援してくれた。
大丈夫大丈夫ガンバレ潤君。
潤くん頑張ってね。
ジュンくんガンバレよ。
ジュンくんいつでも僕に連絡してきな。
自信なんて何ひとつ無かった。当然今も無い。こんな自分でさえも、皆さんの力のおかげで管理者をやらせていただけている。
『ヤバい奴』
『貴方は相手を不安にさせる』
今振り返ると、全てがこの出逢いに繋がったこと。感謝しか無い言葉になった。おかげで、沢山苦しかったし、沢山自分を憎んだし、沢山周りに心配かけたし、沢山迷っていたし、自分の将来なんて全く見えていなかった。
勿論今も色々とありますが、皆さんの大きな力で心から笑っていられることが、どれだけありがたい環境か。
あの日の10代、女の子にモテたいなんて薄っぺらい気持ちは、今では利用者さまに笑顔届けたいと、変わりなくやり続けてきたこと。
心からわくわく出来る毎日に、何度も感謝ばかりです。
何よりもこの方達に出逢えた、全ての始まりはいつも想うことばかり。
介護のきっかけをくれた、今天国にいるばあちゃん。
ばあちゃんがおったけん、ここまでこれたよ。
ばあちゃん
ありがとう。
俺。頑張るから見ていて下さい。
あっと言う間にお時間になってしまいました。素敵なお話をありがとうございました。それでは、次のお客様をご笑介いただけますか。
はい。今一緒に働いて下さり、笑顔を沢山招いてくれる、吉田ケアマネをご笑介したいです☺️
おっ初めてのケアマネの部下さんですね。
それでは
吉田ケアマネ~来月来てくれるかな~✊
いいかも~
✊☺️
苦しんだ分、巨大迷路に何度も迷い込んだ時間。出口分からなくて、何度も焦った日。俺これでいいんだろうか。俺間違っていたんだろうか。そのどん底経験こそが、人の痛みが分かる大きな財産。だからこそ、より優しくなれたし、だからこそ、より大切な人に心から感謝出来る。そんな、水下ケアマネの笑っていいかも。引き続き笑って笑って
笑って〜
🖐️🖐️🖐️
いいかも~
🙌🙌🙌
※水下ケアマネ応援ソング 神門(ごうど)さん
『さて、どう生きようか?』
見ている人はしっかりと見ているよ。ヤバい奴だ?変わり者だ?いいんだよ。『ヤバい程人生を大きく変える奴』と言う略だっただけ。さてどう生きる?全て言い切れる。貴方らしく行けばいい。大丈夫。
編集なぎ