夕方辺りから寒い。エアコンの温度が妙に冷える。皮膚もチクチク。久しぶりに来るなと。
20代では熱ばかり出していた身体。今では殆ど熱は出ない。でも今回ばかりは怪しい。見たら見たで落ち込んでいたが、今なら大丈夫でしょう
私、この7度台が、1ヶ月続いた事があるのです。その日以来の熱。
5年前父親のドナーとなった時、終わってからの1ヶ月ずっと熱が下がらなくて。
その時は、やりたい事や夢、挑戦したい事。ひとつもありませんでした。孝行息子頑張れよ。なぎさん頑張って。なぎちゃん頑張れ。やるだけやったのに、父は動悸が激しくなり、もがき苦しみ、自分は微熱が続き、あの頃は本当に辛かった時期。
そして天国に出張に行ってしまい。でも後悔だけは一切なくて。それはあの日の言葉。
『せがれの血で死ねたら本望だ』
よくせがれの血、息子の血と自慢していたものです。あまりに苦しくて、モルヒネを使った父が一言
こんな苦しい経験したら、死なんて怖くないわと。もう死を覚悟していたんですよね。そんな時も、仕事は上手くいってるか、仲間は大切にしろよ。口癖の親父で、本当に素敵な父親でした。
自分がとにかく辛い時に、人の事を心配できる。並大抵の心じゃないと思います。父として誇りですし、今後もこの生き方は忘れる事が無いでしょうし、とにかく、この命をかけて教えて下さった教育で、自分は大きく変わった時でした。
父には一切触れることも出来ず、久々に触れられる許可が出たのは、亡くなる6時間前。今日が山かもしれません。一旦帰り、浅い眠りで寝たり起きたり。
深夜2時の電話。飛び起きました。母からでした。
『お父さんがもう危ないから病院に行って』
どうしたらいいか分かりませんでした。混乱したのはこの時だけ。
まだ保育園の子供たちを、抱き抱え妻と向かったんです。そして、身体中管だらけの親父。子供達にも隠す事無く、ありのままの姿を見なさいと。全身浮腫み、変わり果てた姿のお爺ちゃんを久々に見た子供達は、びっくりしていた光景を、今でもしっかり覚えています。
そしてそれから6時間後に、8時22分に天国へ。姉や妻が泣き崩れる中、母と私は泣く余裕も無く、ここから親父との約束を果たすんだと、無我夢中で動いたものです。
『俺の葬儀は盛りあげろ』これが口癖でしたから。喪主として、盛大にやってやる。それが今まで余興で企画してきた最大限の力を発揮してやると、燃えた時でした。悲しみを紛らわして居たのでしょうね
父の葬儀も余興企画で、今までの経験が生きた時でした。
盛り上げたい。1番大きな葬儀場を母が手配し、そこから、葬儀の内容の話。全てが初めてすぎて、あれもこれも追加していくと、お金が増える増える。これは今後の勉強になりました。
何よりも拘ったのが喪主の挨拶。男ならマイクを持て。この教えで、小さい頃から育ってきましたから、スタンドマイクにしますか?手持ちにしますか?
即、『手持ちでお願いします』
挨拶文はこんな感じでいいですかと、渡された紙。
『必要ないです。自分らしく話していいですか?』
何分位話されますか?
『分かりませんが、空気を見て話したいので』
長くなりすぎると、ダラダラになってしまいますが
『大丈夫です』
『あと音楽を流していいですか』
喪主様のご挨拶で、今までその様な方は居ませんでしたが
『私が喪主です。私のやりたい様にやらせてください』
頭の中は、俺の葬儀は盛り上げろ。ここしか頭になく必死でした。
人が何言おうが、人様に迷惑のかけない事ならばやる。まさにこの喪主の挨拶は大成功でした。最後の告別式では、拍手がおきた葬儀でした。今でも言われます。あの時の挨拶は良かったねと。自分も心からそう思っています。父との約束を果たした時。決めた事は、必ずやり遂げるもの。
最後の親孝行は、ここなのかなと常に思います。
あそこで、渡された紙を読みあげていたら、この拍手はなかったはずです。
自分らしく
これこそ、父から学んだ最後の教育。人が何言おうが、やらされずにやる。そこに人様に迷惑をかけない事ならば、徹底的にやっていいんだ。改めて感じた時でした。
他は、健康じゃ無ければ、夢も希望も何一つ感じないと言う事も、大切な最後の教育。
そして、どんな時も相手の事を心配出来る。今この微熱でそう思えるのか。自分が苦しいのに、果たして出来るのだろうか。
まだまだ未熟者。そんな中、自分が苦しいのに、相手を心配出来る方がいる。本当に凄い事。
『いつもありがとうございます』
お盆ですね。久々に親父は帰ってくるのですね。また一杯飲みたいものです。
なぎ