自分でしっかりと料理をしたことが無いこともあり、何を食べてもこの世に不味いものが無いと言い切っています。
それ程、自分の作ったものより、この世に不味い食べ物は無いからこそ、逆に食事で不味いと言う物を食べたことが無いのです。ある意味幸せ過ぎる舌。
昔は作りたくて作ってみたことがあるのです。美味しいと言われるかなってシチューを作れば、野菜が焦げて灰色シチュー。
野菜を炒めることなく、生で麺の上に乗せた野菜ラーメンと言う自分の常識。
手作りケーキで届けたかった感動が、鳥肌ものな大量生クリーム。私の20代そんなメニューに、結婚前の妻に驚かれたこと。真剣に作ったそのレベル😁全て酷過ぎて、ひと口程度で残ったこれまで思い出すメニュー達。
間違い無くこの時点で、自分の舌やセンスは、人を笑顔に出来ないと、料理ということに興味ゼロになったのが大きなきっかけ。
そんな私。昨日珍しくやりたくなったこと。
年末、後輩のこばさんからいただいていた大量のエビ🦐こばさんの想い、また届けてくださったともさんの優しさを感じ、解凍後、皮剥きと背ワタ取りを全てやらせてもらったのです。
本当大変な作業でしたが、もくもくやるのは好きなのです。
66尾やっているうちに、最後の辺りは慣れたもの🤭
そしてその後はバトンタッチ。エビはやっぱり食べられないと娘。そこで感じたこと。
準備から大半
まさにイベントと同じだったこと。
一つひとつ大変な準備の割に、食卓に並ぶとあっという間にごちそうさま。こんな下処理が大変だなんて、やらないとこれ分からないなと。
ただ大きく違うこと。これが毎日。どんな凄いことなのか。
そもそもこんな凄いことを毎日やってから、仕事に行く。そんな言葉を言うと、みんな当たり前だよと当然の様に言う。
負担でしか無い私からすると、心の底から思うのです。卵を焼くだけでも凄い。凄いんだと。本当凄いよと。
ケアマネに挑戦して落ち込み、何もやれないと落ち込む後輩に言ってやりたい。耳元でいつも頑張ってるねと繰り返したい。朝からもう家族のため。もう凄いこと。
レベルの違い
こんな話がある。食にとにかく好き嫌いが多い子供達。今でも覚えている山男の山で過ごした親子会話。今でも忘れられない、パパのソーセージがとても美味しかったと言われた朝。
あの日焼いただけ。あの時、私が準備したからで、妻がやっていたら、違う言葉になった言葉。一切期待出来ない私が、2人の子供を1人で見ていて、やらざるを得ない状況で、焼いただけのソーセージは娘の舌はいつもとは変わる。
私の料理で子供達が育てば、不味いなんてこの世に無いと言い切れる。
幸せボケ
好き嫌いが言える今。不味いなんて言えない時代があったこと。世界にはそんな国も今でもあること。
幸せが当たり前になると、舌も環境も勿論レベルが上がる。これまでの幸せが不幸にもなる。
でもこれも経験して言えること。
生まれた時から、食べられる環境が当たり前の様にあり、創り上げて下さった環境が当たり前の様にあるのは、これが当然の環境になる。
先日、成人を迎えた仲間の子供達。社会に出てもみくちゃにされ、沢山知れる現実。どれだけこれまで恵まれていた環境かを知れる時。
挑戦のその先には、これ程まであるかと言う苦労と笑顔。だからこそ、娘は常に言われている。高校卒業したら、一旦家を出て生活してお願い。でも分からんよ。
そっちのが幸せだったりしてね🤪
本日も笑って笑って行ってらっしゃいませ✊
今日の悲しみ、幸せレベル増える贈り物!
なぎ