『お父様にお供え下さい』
いつになっても、幸せな親父です。嬉しくなるものです。
かわさん、栗さん、えりさん、いつもありがとうございます。
2014年10月3日 8時22分
63歳の命でした。
あの日の1日前。10月2日はまだ面会が解除されておらず、家族しか面会出来ない状態は続いており。30分の時間を分け合うんです。
毎日面会に行っていた姉が、もうおかしいと。病院はそれでも面会の解除は出来ないと。いつも通りだと。
それでも姉はおかしいを繰り返し、面会が解除となり、時間制限も無くなり、絶対におかしいから、会いに来てと連絡をくれたのです。
いつもひとりの訪室が、初めて妻と2人で入った部屋。酸素をしていても、無意識に取ろうとする父。
強いイメージしか無かった父が、弱々しい姿。一人闘った部屋。全てが辛かったですね。
面会時間の22時を過ぎても、今日はいいですよと、優しい看護師さんの言葉に甘え、23時頃まで父の隣で過ごしたものです。
一旦帰るわと。すると、朝の4時頃。母からの電話。飛び起きましたね。もうお父さんが危ないから病院へ行ってと。
まだ保育園だった小さい子供達を抱え、病院へ向かったんです。
じいじの変わり果てた姿に、驚いていた娘息子。甥姪の姿を今でもよく覚えています。
しっかり見ておきなさい。これが父親の思いでした。命。最後はみんな亡くなっていくもの。父が命をかけて教えて下さる、最後の教育。何よりも辛くて悲しい最後の教え。
ブログを打つ今、日が昇ってきましたが、あの日もこんな天気で、こんな寒さ。
そしてその時間が訪れます。
医師からの8時22分ご臨終です。深々と頭を下げる光景。全てが初めて過ぎて。
ベットを囲み、泣き崩れる家族。初めて見た光景。そこを冷静に見てた母と息子。スイッチが入った時でした。
『俺の葬儀は盛り上げろ』
長男として、喪主として、どんな時も凛としてろ。悲しむ暇はないと言う、親父の愛情だったと思っています。
男は泣くもんじゃない。そんな昭和教育。流石にしんどかったですけどね。
全てが初体験でした。霊安室、あそこまで暗く悲しくする必要あるのかなって。もう泣け泣けを促すのです。
ドラマで見た通りの悲しさ満載。そして、悲しみのなか扉が開けば霊柩車。こうやってみんな運ばれていくんだ。
母と私が乗り込み、家族は父の荷物の片付け。一斉に連絡開始。そして一気に葬儀の内容を決める。
全てが分からない。しかし受けていたアドバイスは、お母さんのやりたい様にやらせてあげなさい。
どうするどうする?という母に、やりたい様にやればいいよ。
棺ひとつピンキリ。
お父さんこれのが喜ぶよね。それでいいよ。
花のデザイン派手なの好きだからこれでいいよね。それでいいよ。
全て母のやりたい様に。
後でお金に驚く訳ですが。それも後から知る話。その時は何も分からないのですから。これはこれで学べた事。先に、最低限は知っておくのも大切な事。
とにかく仲間を大切にした、父の葬儀は盛大でした。
焼香の時が一番しんどくて。皆様が父の為に順番に並んで下さる姿は、もうダムが決壊しそうで。
男は泣くもんじゃない。
我慢の連続。父が骨になり全てが終わり、ホッとした瞬間、一人外に出てダム崩壊
空を見上げた時、澄んだ秋の空で。この秋はあの日を思い出すものです。
このまんま悲しいままではないのが、人間の素晴らしいところ。それどころか、同じ経験した方々に、心から寄り添えるのですから、悲しみってすごい事。
ずっとケアマネをしていて思う事。ご家族に心から寄り添えるのは、父のおかげ。この経験があるなしでは、この思いは分からない。
それまでは、やはり何を声かけていいか分からなかったのです。こんな事伝えていいのかなとか、本当かける言葉が見つからないとは、よく言ったものです。
でも今はあの日の悲しみが、心から寄り添える。それは父からのプレゼントとして、とにかく大切にしています。
寄り添えると言うのは、気持ちが分かり合えるから。この仕事をしていて、そんな場面は多いものです。あの日耐えた涙。年と共に昭和の教育は、令和ではダム崩壊。
色んな経験が、色んな感情となり、色んな人に寄り添える。
年と共に、涙もろくなるとよく言ったものですが、それは経験値が増え、相手の立場になれるから。
あの日言われたものです。男とは、父親を亡くしてからが一人前だと。
確かにあの日から大きく変わりました。しかし、いつになっても半人前ですし、半人前にもなっていないかもしれません。
だからこそ、日々努力ですね。そして日々、生きている事に感謝ですね。
2014年10月3日
日が昇ってきた今頃に、父に誓った一枚の写真。
言葉にせず誓った、男同士の約束事。
守り続けていますよ。
さっ。だいふくの休日の、コアなニッチな🤣ファンの皆様が、より素敵な人生になります様に。今日も親父頼みますね👋
なぎ