『余命宣告をされた時、何をする?』
こんな事聞かれて、みんな色んな事のチャレンジ話が出てくる。
昨年の映画で、吉永小百合さんと、天海祐希さんの映画もそうでした。
余命宣告をされた2人は、12歳の少女の『死ぬまでにやりたいことリスト』すべてをやる物語。
自分は、63歳で亡くなった父が、病気になった時、同じ気持ちになったんです。
父が55歳の時、父親の会社の健康診断で、凄い数値を叩き出し。父即入院。その日の夜、突然実家へ呼ばれた家族会議。
『お父さん、何もしなければ一年持たないんだって』
待っていたのは、驚きの母の言葉でした。悪性リンパ腫、ステージⅣ
嗚咽して号泣する姉と、肩を落とす母の姿が、妙に記憶に残っているもの。そして、妙に冷静だった記憶。
まだスマートフォンを持ってない時代。パソコンで色んな、前向きな闘病日記だけを印刷しては、よく病室に持っていきました。
そこで、父がよく言ったのが、笑っていると免疫力が上がるからと、とにかく同じ病気で苦しむ人を、自分が先頭切って盛り上げていた姿が忘れられません。
でも面会に行く度に、病室が空いて違う方が入るのです。父にどうした?って聞くと、ダメだったわと。
順番に見送る姿。辛かったでしょうね。自分をイメージさせたでしょうね。
あの昭和親父が、時折見せる悲しい姿も、実は息子は分かっていて。夜一人で泣いている事も、実は分かっていて。
父と仲良くしていた仲間達と、連絡していたから。
それでも息子の前では、弱音を見せる事なく、昭和の親父を演じてて。
でも怖いよね。
どんな時も笑ってろ。親父は貫きましたね。驚きの免疫力。ステージⅣが、みるみるうちに完治するんです。そして有言実行の退院。
父はそこから、自費出版して、同じ病気の方に配り、笑ってたら必ずやいい事あるって、とにかくみんなを励まして。昔からそんな父の姿ばかり見てきたのです。いくら、自分が苦しくても、そのスタイルは同じでした。
とにかく遊び一筋。仕事一筋な、頑固親父でしたね。
そこからというもの、生かされた中古品の親父の身体は、もっとやりたい事やるって、そのひとつに選んでくれたのが、息子と毎月2人飲みするって。
それまで、父と話をするなんて、忙しい親父で殆ど家にいない存在だった為に、やはり会えばなんだか、ぎこちなかったんです。
でも毎月会っては、本当この人まめだなぁって、よく感じたもの。岡崎の田舎のお店をはしごして、行くとこ行くとこ、みんな常連で。
こうやって俺は、この遊びから色んな仕事に繋げてきた。でもお母さんは分かってくれんだよな。たまにそんな事も口にしては、笑っていたり。
でも母は、ただ身体の心配をしていただけと思うのです。
そこから特に、俺は生かされた命だと、とにかく仲間達の為に、司会をしたり、旅行を企画したり、会社を盛り上げたり、人生謳歌してるなぁ。なんて、つくづく感じた程
全く出逢うはずのない2人もそう。思いはおんなじ。
私達もおんなじ。余命をたまたま知らないだけで、昨日より今日。今日より明日。確実に死に向かってる。父もやりたい事やって、63歳、せがれの血で死ねたら本望だと、もがき苦しんで死んでいく、そんな最期でした。
男同士、移植前に話したどうでもいいバカな内容。残されたものにさ、何か一言ないか?
葬儀を盛り上げろ。この言葉。闘病生活が始まった頃から叩きつけられた教え。今なら動画でも撮って、葬儀で流しただろうな。
でも、移植前の男同士の会話には、その言葉がどうしても言えなくて。聞けなくて。自分も運良く骨髄移植のドナーがやれるとなり、仲間達と作り上げた、自分の血液を信じていたし、父も息子の血液を信じていたし。
でも、父が何度も残してくれたあの言葉。
『せがれ(息子)の血で死ねたら本望だ』
この仕事をしていて、もう何人、何百人見送ってきたでしょうか。やりたい事やる。そこにやっぱり辿り着く。
余命が確実に分かるマシンを、ドラえもんが出してくれた時、必ずや今やりたい事やると思うのです。
そんなマシンが無くても、仲間の背中を押したいなって。父のもがき苦しむ姿。そして息絶える姿。やりたい事やって、人生謳歌した父の姿。
色んな想いがあります。
だからこそ、やりたい事全てやってきているし、これからもどんどんやる。
そして仲間が一歩踏み出せない時は、背中をどんどん押して、はじめの一歩を見せてあげたいものです。
さあ、父の人生を自分の余命としている為に、これから出逢う、いろんなやりたいに巡り合えた時、またチャレンジシリーズが始まります。
その時はまたネタとして、ここ『だいふくの休日』でお付き合い下さいませ🤣
それでは本日も、やりたい事がやれる、より楽しい1日となります様に👋
なぎ